日本文化の可能性

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井山宝福寺紅葉。雪舟が修行した寺として有名


─日本文化の可能性─
        参照⇒日本文化論

                http://www.eonet.ne.jp/~human-being/bunka.html



 日本人は、いま心の閉塞状態にあり未来への展望を見失いつつあります。戦後の民主主義的価値観を支えるはずの市民的個人が確立せず、日本的伝統である「和の文化」に潜む「甘えと依存」の体質を脱しきれないで、国際的には経済的貢献を評価されても道義的な国とはみなされていません。靖国神社憲法改正の問題に見られるように、アジア・太平洋戦争(侵略、敗北、犠牲)の反省と責任を曖昧にしたままで、この無謀な戦争を肯定しようとする動きも強まっています。これらは単なる政治問題にとどまらず、日本文化全体の問題です。

 日本人は古来農耕生活の中で、自然を愛し人間の和や情緒を大切にする文化を育ててきました。しかし明治新政府による上からの近代化の中で、富国強兵の推進や立憲体制の確立を通じて西洋の科学技術や政治経済のしくみを導入し、アジアで唯一成功を収めてきました。そしてその急速な近代化の過程の中で、日本文化の負の側面が突出することにもなりました。それは上からの権威主義に依存し、情緒的で無責任な行動に走りがちなことです。具体的には、帝国主義的競争の時代、日清・日露の戦争に勝ち、台湾・朝鮮を植民地にして世界の一等国になり自信を深めた後、世界恐慌などの問題を解決するため、財閥の後押しや軍部の暴走によって満州事変を引き起こし大陸侵略(日中戦争など)を推進しました。そのため物量に勝る大国アメリカとの衝突となり、広島への原爆投下など未曽有の惨禍をもたらし敗戦となりました。

 無条件降伏後、戦勝国アメリカの連合国軍最高司令官マッカーサーは、日本にとって幸運をもたらす巧妙な占領政策を行いました。日本の文化的伝統を受け継ぐ天皇制を温存した上で、憲法9条に見られる徹底した平和主義を採用し、上からの民主主義を定着させようとしました。しかし日本的な曖昧さが残され、厳しい東西対立や南北問題など錯綜した国際情勢の中で、日本人自身が西洋的文化と十分な対決をせず、西洋的価値である自由・平等主義、民主主義、社会主義を無批判に受け入れ(または反発し)、日本人としての戦前の反省や未来への展望が開けぬまま、アメリカの核の傘に守られて、平和の幻想に依存してしまうことになりました。民主主義の成熟には個人の社会的自立が必要ですが、戦後日本の教育も社会も、憲法教育基本法のめざす民主的道徳の確立よりも経済的豊かさのみを追求してきたのです。

 いまや日本人は、日本民族が敗戦という犠牲を払い、日本文化と西洋文化を調和的に取り入れた「日本国憲法」の世界史的意義を深く自覚し、日本文化の長所を伸ばし短所を克服して、平和的民主的国民性を育成しなければなりません。21世紀の現代は、全地球的な環境・資源エネルギー、貧困、民族・宗教対立などの問題が解決されねばならない時代であり、狭い国益や利害の対立をあからさまに強調し、武力解決する時代ではありません。

 様々な対立の根源にある過去の宗教(神や仏、天国や地獄、悪魔や怨霊)やイデオロギー(西洋的諸概念、マルクス主義国粋主義等)、生命や心の問題も、科学的な常識で解明でき人類的にも相互了解が可能な段階にきています。また経済・政治的利害対立も、文明による自然破壊をはじめとする全地球的危機を念頭に(Think globally)、開かれた透明な(清き明き)関係を構築すれば、共存共栄のための平和的解決が可能となります。日本文化の受容性と生命力(感性の純粋さ)、自然と和の重視、またそれらを体現した「日本国憲法」こそこれらの今日的な問題の解決に貢献しうると思います。われわれは、歴史に学び反省的思慮を働かせる限り、日本文化に対し十分な誇りと自信を持つことができるのです。

 西洋の分析的、批判的、理性的思考と、そこから生じる主体的個人と民主主義の確立が、日本文化には欠けています。しかし、日本文化の受容的感性(排他的感性ではなく)によって、日本人には、集団の和をもとに、西洋文化の分析的「社会と個人」を肯定的に取り込むことが可能です。その契機となるのが「生命としての言語」すなわち「言霊(言葉の持つ生命力)」についての自覚なのです。「言霊」は、個人を自然や社会の中に位置づけ、「個人と社会」の安定(誤れば不安定)をもたらします。日本文化は、「言霊の謎」の解明と、それによって得られる人間存在(個体の位置づけ)についての普遍的知識によって、人間関係や生き方についての新たな世界標準を創造することができる可能性をもつのです。

 今日の世界の混迷は、物質的な利害の対立が基調にありますが、世界観や価値観という人間の在り方の混迷(宗教や思想の限界)に依るところが大きいことに異論は少ないと思われます。従って世界標準の価値を創造し確立することが、民主主義の育成や異なる文化や価値観の共生という以上に必要とされるのです。受容し昇華する日本人の能力や、自然と共に生きる日本の文化は、文明の危機が叫ばれる今日の宇宙船地球号において、世界平和と人類の永続的幸福への希望を与え、世界の文化や福祉に寄与する可能性をもっています。日本文化の短所である自己完結的自閉性に安住することなく、感性を重んじる日本文化の善性や徳性を伸ばし、世界的普遍性を創造していくことが日本文化の使命と言えるのではないでしょうか。

 

<資 料>日本文化の特性を表す言葉

Ⅰ.「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される。もとよりこの風土は歴史的風土であるゆえに、風土の類型は同時に歴史の類型である。自分はモンスーン地域における人間の存在の仕方を「モンスーン的」と名づけた。我々の国民もその特殊な存在の仕方においてはまさにモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である。」(和辻哲郎『風土』)

Ⅱ.「基本的には、日本人は自然を人間に対立する物、利用すべき対象と見ていない。むしろ、自然は人間がそこに溶け込むところである。自分と自然との間に、はっきりした境が無く、人間はいつの間にか自然の中から出て来て、いつの間にか自然の中へ帰っていく。そういうもの、それが『自然』だと思っているのではなかろうか。」(大野晋『日本語の年輪』)

Ⅲ.「日本人の非論理的性格は、おのずから論理的整合性のある首尾一貫した思惟作用がはたらかぬようにさせている傾向がある。すでに古代において柿本人麿は『葦原の水穂の国は神ながら言挙げせぬ国』であると詠じている。そこにおいては、普遍的な理法を、個別的な事例をまとめるものとして構成するという思惟がはたらかない。古代日本の精神を明らかにした称する本居宣長によれば、『古の大御世には、、道という言挙もさらになかりき。故古語に、あしはらの水穂の国は、神ながら言挙せぬ国といへり。・・・・・言挙せずとは、あだ(他)し国のごと、こちた(言痛)く言ひたつることなきを云なり。』という。」(中村元『東洋人の思惟方法3』)

Ⅳ.「ヨーロッパ精神の対照をなすものは、何かと言えば、境界をぼかしてしまう気分の中でする生活、人間と自然界の関係における感情のみに基づいた、従って相反を含まない統一、両親、家庭及び国家への批判を抜きにした拘束、自己の内面、自己の弱点を露わさないこと、論理的帰結の回避、人間との交際における妥協、一般に通用する風習への因襲的服従、万事仲介による間接的な形式、等である。」(カール・レーヴィット『ヨーロッパのニヒリズム』柴田 訳)

①「天地のはじまりし時、高天原成りませるの名は、天御中主の神。・・・・この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。・・・・・ここに天つ神(別天つ神々)諸の命もちて、伊邪那岐命伊邪那美命、二柱の神に「この漂へる国を修め理り固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。」(『古事記』倉野校注 )

②「葦原の水穂の国は/ 神ながら言挙げせぬ国/ しかれども/ 言挙げぞわがする/ 言幸くまさきくませと/ つつみなくさきくいまさば/ 荒磯波ありても見むと/ 百重波千重波にしき/ 言挙げす吾は/ 言挙げす吾は
反歌 志貴嶋の/ 大和の国は/ 言霊の助くる国ぞ/ ま幸くありこそ」(『万葉集 巻十三、柿本人麿』佐々木 校注)

③「現身(うつそみ)の身にも心にも罪といふ罪はあらじと 祓ひたまへ清めたまへと白(まを)すことを所聞食(きこしめ)せと 恐(かしこ)み恐みも白(まを)す」(『神言』)

④「有子曰わく、礼の用は和を貴しと為す。・・・・和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦た行なわるべからず。」(『論語学而十二』金谷治 訳)
「和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。」(聖徳太子『十七条の憲法』)

⑤「我(釈尊)諸の衆生を見れば 苦海に没在せり 故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ 其の心恋慕するに因つて 乃ち出でて為に法を説く 神通力是の如し 阿僧祇劫に於て 常に霊鷲山及び余の諸の住処にあり」(『妙法蓮華経如来寿量品第十六』中村元訳)
 「草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心の無常なる、これ仏性なり。国土山河の無常なる、これ仏性によりてなり。」(『正法眼蔵・仏性』)
 「此体に生死無常の理をおもひしりて、南無阿弥陀仏と一度正直に帰命せし一念の後は、我も我にあらず。故に心も阿弥陀仏の御心、身の御振舞、ことばもあみだ仏の御言なれば、生きたる命も阿弥陀仏の御命なり。」(『一遍上人語録』)

⑥「秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう凉しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。」(紫式部紫式部日記』池田校注)

⑦「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあんめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に墻根の草萌えいづる頃より、やや春深く霞みわたりて、花もやうやうけしきだつ程こそあれ、折しも、雨風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。」(吉田兼好徒然草 第十九段』西尾校注)

⑧「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」(松尾芭蕉笈の小文』中村校注) 

⑨「すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこちたくさだせるやうなる理非は、露ばかりもなく、たゞゆたかにおほらかに、雅たる物にて、哥のおもむきぞよくこれにかなへりける。」(本居宣長うひ山ふみ』村岡校注)

⑩「東洋の道徳、西洋の芸。匡廓(版木の枠)あひ依りて圏模(円形のかた)を完うす。大地の周囲は一万里、また半隅を虧(欠)きうべきやいなや。」(佐久間象山『象山書簡』植手校注 )

⑪「大日本帝国憲法 第一条 大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス 第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 」(『大日本帝国憲法』)
  「敎育ニ關スル勅語 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」(『敎育ニ關スル勅語』)

⑫「人が自己を中心とする場合には、没我献身の心は失はれる。個人本位の世界に於ては、自然に我を主として他を従とし、利を先にして奉仕を後にする心が生ずる。西洋諸国の国民性・国家生活を形造る根本思想たる個人主義自由主義等と、我が国のそれとの相違は正にこゝに存する。我が国は肇国以来、清き明き直き心を基として発展して来たのであつて、我が国語・風俗・習慣等も、すべてこゝにその本源を見出すことが出来る。(文部省『国体の本義』1937年初版)

⑬「武士道は、その表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。・・・・それは今なおわれわれの間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態をとらないけれども、それにもかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。」(新渡戸稲造『武士道』矢内原 訳)

⑭「日本の武人は開闢(カイビャク)の初めより此国に行はるる人間交際の定則に従て、権力偏重の中に養はれ、常に人に屈するを以て恥とせず。彼の西洋の人民が自己の地位を重んじ、自己の身分を貴て、各其権義(right)を持張する者に比すれば、其間に著しき異別を見る可し。」(福沢諭吉文明論之概略』)  

⑮「朕(チン)ハ爾等國民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジクシ休戚(喜びと悲しみ)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶(チュウタイ)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ヒイ)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。」(昭和天皇『新日本建設に関する詔書』1946/1/1) 「明治の国家神道というのは、それまでの日本的伝統にはないものですね。」(司馬遼太郎『対話選集3敗戦体験から遺すべきもの』)
「自分としては敗戦というのは、なんて言いますか、ショックでした。なんてくだらない戦争をする、そして、くだらないことを色々してきた国に生まれたんだろうと。一体こういうバカなことをやる国というのは何だろう。そういうことが日本とは何かとか、日本人とは何だということの最初の疑問になったわけであります。」(司馬遼太郎NHK戦後史プロジェクト『22歳の自分への手紙』」)

⑯「日本国憲法 第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(『日本国憲法』)
 「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。」(『教育基本法』)

⑰「日本人は歴史の長さにもかかわらず、まだまだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度で測ると、われわれが四十五歳であるのに対し、日本は十二歳の子供のようなものだ。勉強中は誰でもそうだが、彼らは新しいモデル、新しい理念を身につけやすい。日本では基本的な概念を植え付けることができる。事実日本人は生まれたばかりのようなもので、新しいものの考え方に順応性を示すし、また、どうにでもコントロールが利くのだ。」(西鋭夫『マッカーサーの「犯罪」』米上院公聴会記録)

⑱「日本人は甘えを理想化し、甘えの支配する世界を以て真に人間的な世界と考えたのであり、それを制度化したものこそ天皇制であったということができる。」(『甘えの構造』「甘えのイデオロギー」)
「欧米人において、「自分がある」という自覚が日本人に比較してより持ちやすいとするならば、それは彼らの精神的伝統の中に、個人をして集団を超越せしめる何ものかが存在するからであろう。それは集団を超えながら、しかも確実な所属感を個人に与える何ものかである。」(土居健郎『甘えの構造』「甘えの病理」)

⑲「日本の文化は根本から雑種である、という事実を直視して、それを踏まえることを避け、観念的にそれを純粋化しようとする運動は、近代主義にせよ国家主義にせよいずれ枝葉の刈り込み作業以上のものではない。いずれにしてもその動機は純粋種に対する劣等感であり、およそ何事に付けても劣等感から出発して本当の問題を捉えることはできないのである。本当の問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味を認め、それをそのまま生かしてゆくときにどういう可能性があるかということであろう。」(加藤周一『雑種文化』)

⑳「『デモクラシー』が高尚な理論やありがたい説教である間は、それは依然として舶来品であり、ナショナリズムとの内面的結合は望むべくもない。それが達成されるためには、やや奇矯な表現ではあるが、ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非合理化が行われねばならぬ。」(丸山真男『現代政治の思想と行動』)

 

「日本はわれわれ(アメリカ)の基礎の上にではなく、日本自身の基礎の上にその自尊心を再建せねばならないであろう。そしてそれを日本独自の方法によって純化してゆかなければならないであろう》(R.ベネディクト『菊と刀―日本文化の型』長谷川訳)Meantime Japan will have to rebuild her self-respect today on her own basis, not on ours. And she will have to purify it in her own way.

「戦争は第一に法の権威を毀損するものでさかのぼっては、人間の道徳的本分にそむくものである。法というものは、人間社会の無制限の自由の相互侵犯を調停し、道徳的自由実現の妨げになるものを取り除き、人格の品位を擁護しようとして成り立つもので、これを侵害することは人間の共同生活の理念にもとるものである」(カント『永遠平和のために』宇都宮訳) ”言葉の力(言霊)は、肯定と否定、快と不快、幸福と不幸、安心と不安の間で迷い揺れ動く心(心情)に平安と確信と希望をもたらすことができる。言葉は人間の証であり、行動の動因となり、人間の理性として正しく使う限り、人間を最も人間らしくする。日本人は言葉の力を「言霊」として真に理解し、日本的心情の善性を普遍的なものとして世界に広めることができる”

 

 

 

生命言語心理学とは?

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泣き、笑い、ほほえみ、怒り、心は言葉で意味を知る

【生命言語心理学倫理学)の概要】


 はじめに
 ここに提案する「生命言語心理学」は、従来の心理学に比べて、心理に及ぼす言語の役割を大きく捉えています。この心理学の目的または役割は、生命(細胞)が地球上に出現(誕生)した意味と、言語が人間心理に及ぼす影響を、言語を獲得した生命である人間自身の言語によって解明(自己理解)し、自己や社会においてコントロール性を高めようとすることにあります。つまり、言語が心(精神・心理・大脳)に及ぼす働き(機能)を解明し、人間が言語的存在であることを自覚して、自己自身の永続的幸福の構築に役立てようとするものです。以下に、そのための六項目の生命言語心理学の原則をあげておきます。

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生命言語心理学の心のイメージ

 

1)生命の捉え方(生命をどのように意味づけるか?)
a)生命(細胞)は、多様な環境の変化に応じて代謝・適応・生殖をおこない、自律的生化学反応を持続させようとするシステムである。
b)生命は、30数億年前に地球という特殊な環境の中で誕生し、多様な環境に適応し多様な生存形態をとって生活するように進化(多様化・複雑化)してきた。
c)人間は、言語を獲得したことによって、自らを生命として意味づける存在であり、その意味に従って自覚的に生きることを強いられた存在である。  ⇒詳細

 

2)動物の環境適応様式の特徴(神経系の発達)
a)動物としての生命は、従属栄養生物として他の生物を補食して代謝を行い、捕食と安全保持のために環境変化に機敏に対応して活動する。
b)動物においては、生命細胞(生化学反応)の刺激反応性の構造が、様々の知覚と行動(器官)に複雑に分化・統合され。的確な判断をする中枢神経系(脳)を発達させた。    ⇒詳細

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この図に見えない言語を加えれば、人間の心身モデルになります



3)生命活動の動因としての欲求(個体維持と種の存続)
a)欲求は、動物行動の基本的動因であり、個体によって強弱、敏鈍、粘淡など(生得的気質・個性)に違いがある。
b)欲求は、哺乳類では個体と種族の維持に分類され、さらに人間では、意識的な言語的構想力によって人間的欲求としての二次的(もっと)・空想的・観念的・創造的欲求に拡大する。
c)欲求が充足すると快(肯定的)感情、充足しなければ不快(否定的)感情が起こり、次の 快の追求または不快の回避に向かう。   ⇒詳細

 

4)動物行動の判断基準(生得的学習的)としての感情(快・不快)
a)感情は、欲求充足のための無意識的反応であるとともに、行動の肯定的または否定的原動力になる。

b)感情は、肯定的、否定的、意志的感情に分類でき、その反応様式は記憶・学習・蓄積される。肯定・否定の対立的感情は、生存欲求の充足における選択・判断・価値観の基準となる。
c)意志的感情は、欲求や感情についての人間固有の言語的意味づけと関わり、時空の広がり(または希望や究極・永遠)への執着をともなう。  ⇨詳細

 

5)人間における言語の役割
a)言語は、人間に固有の本質であって、情報の相互伝達を的確に行うとともに、人間の外的反応や行動から独立して、内的な情報処理(思考・記憶)が可能な音声信号(刺激)である。
b)人間とチンパンジーとの違いは、人間が言語という二次信号系(パヴロフ)を獲得したことによって、チンパンジーのもつ認識能力の「直示的限界(直示性)」を超えたことによる。
c)言語は感情を刺激・抑制し、欲求を方向づけ、認知や思考の手段となって価値観や人生観・世界観を構成し、心と行動の枠組みをつくる(または、意味づけ、正当化・合理化する)。
d)言語は、他の動物のような無意識的刺激反応性にもとづく単なる音声信号ではなく、主語・述語・目的語等による論理を記号化した音声信号である(文法の成立)。それによって、人類は、情報処理の面で創造的構想力の飛躍的進歩を遂げた。   ⇒詳細

 

6)人間の自己コントロールと社会的行動
a)人間心理(心)における言語の役割は、無意識の基本にある欲求と感情を意識化しコントロールすることにある。言語は、言語で構成する知識と共に、人間存在(欲求・感情・利害等)を表現し意味づけ強化する。
b)社会的活動は、言語的に意味づけられ共有された社会的了解(伝統・教育)と自己理解(学習)とによって成立する。人生観や価値観は、社会的イデオロギーを形成し時代的制約を受けると共に、新しい価値観を創造する。
c)人類が、地球上で平和、共存、共益、幸福な生活を持続するには、自己と相互への言語的な理解(共通認識)とともに互助・知足と慈悲・仁愛の精神が不可欠である。

                                ⇒参照

さらに詳しくは、「心の構造と機能」をご覧下さい。

 

人間存在研究所  サイトマップおよび内容の検索

◇ 人間とは何か?

カウンセリングと心理療法

人間とは何か(Q&A1)

人間とは何か(Q&A)2

「人間とは何か」に関するQ&A 3

人間と動物の違いとは?

 

心とは何か (生命言語心理学)

心・脳と欲求・感情

心の構造とはたらき(事例)

プレゼン心とは何かp.p.

心を強くする方法

誤った心の強化法

マズロー批判

 

◇ 生命言語理論(LWT)とは

生命言語理論の意義

言葉とは何か(言語原理)

言葉を吟味する意味

言語とは何か―解明の意義

人間・言語・西洋

★ 言語の起源

言語起源と進化論

プレゼン生命言語説

チョムスキー批判

 

◇ 新社会契約説とは

旧社会契約と新社会契約

新社会契約説の意義補足

民主主義社会と政治

新しい社会道徳とは

地球環境激変の21世紀

プレゼン新社会契約説

マルクスとハイエク批判

 

★ 経済学思想批判

経済学的人間観の批判

新古典派経済学批判

市場の欠陥性とは

市場の欠陥性(part2)

世界経済の縮小成熟

スミスの道徳論批判

スミス道徳論批判

マルクスとハイエク批判

ハイエクの「致命的な思いあがり」

 

 ☆ 日本文化の可能性

憲法改正の三条件

宗教と道徳の意義

人の心と西洋思想

イデオロギーの復権

世界連邦への道

新世界人権宣言の提案

 

☆ 仏教を現代化しよう

「ブッダのことば」と科学

仏教と生命言語説

輪廻・縁起・認識論批判

仏教の心と生命言語説

仏教と「みすゞ観音」

 

○「ユネスコ憲章」の冒頭には、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」とあります。人の心は、欲求と感情、そして心の記憶を意味づける言語(観念)で構成されています。心の中の平和のとりでは、言葉で作られます。あなたは心の中にどのような平和の心を持っていますか。心の中に生命や人間の尊厳という観念(言葉)を持っていますか?これからの人間は、心の中に平和と人間の尊厳という言葉を育てて、自分の欲求や感情を制御(manage,control)していく必要があるでしょう。

 

 

幸福とは何か?(幸福論の 三形態)

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願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃 西行法師

               永続的幸福の条件 幸福論と宗教批判 幸福論試論

 「幸福とは何か?」というのは、四大都市文明が成立し、有閑階級(哲学者や宗教家などの思想家)が人生について哲学的に考え始めて以来、今日に至るまで解答の得にくい難問でした。万学の祖とされるアリストテレスも、誰もが幸福を追求するが、知者や一般人の間に異論があることを述べています。彼自身は究極の幸福を、人間の本質を示す理性の活動を生かした観想的生活にあるとしましたが、享楽的生活や政治的生活における幸福も認めていました。ここでは、アリストテレスに倣って、幸福を「刹那的幸福」「過程的幸福」「永続的幸福」の三つに分類し、とくに「永続的幸福」について、東洋思想(特に仏教)との対比によって、現代人に受容可能な倫理的幸福論を提案します。

1)【刹那的幸福】は、動物的・生理的な基本的欲求を充足させ十分な快楽をもたらす幸福で、食料・衣服・住居を不自由なく獲得し、共同生活の中で喜怒哀楽の感情をコントロールしながら心豊かに生きることができる状態(場合)です。イソップ寓話でたとえるなら「アリとキリギリス」のうちのキリギリスの幸福感に近いものです(楽しめる時に楽しもう)。 
例示)
・直接的な欲求充足・快楽感情:快楽・幸福感を美味しい食事、快適な住まい、素敵なファッション、音楽、スポーツ、仲間など、物品や他人を介して幸福を得る。また、欲求や感情の求める宗教的幸福(苦しい時の神仏依存)や、他人から与えられ金銭で購入する娯楽はほとんどこの部類に入ります。「今だけ、金だけ、自分だけ」という新自由主義的発想は、人間にとって刹那的幸福しかないと思わせ、有限な資源の浪費にしか目を向けさせない資本主義的商業主義のイデオロギーの基本であると言うことができます。自己の創造性のない一時的な浪費と享楽の消極的幸福は、その幸福の持続性を維持することとは、決定的に矛盾します。

・死への態度:生前は自己の死について深く考えず、死に臨んでは幸福感もなく苦しみながら死ぬ。寝てる間に死にたい、ぴんぴんころりが望みというような絶望的な態度が特徴です。
・恋愛と友情:相手に対する思いやりよりも、自分の利害得失が優先する。その時その場の苦楽・幸不幸で離合集散し、相手を利用することで幸福を感じる(支配・虐待・いじめ)ような人間関係が特徴。
・消費性向と満足度:無計画的・衝動的・反道徳的、高所得者の浪費と享楽と欺瞞、低所得者の吝嗇と絶望と愚痴。


2)【過程的幸福】は、人間が欲求実現のより快適(安心、満足、美味等々)な目標を定めて創造的に追求する過程で得られる幸福です。イソップ寓話でたとえるなら「アリとキリギリス」のうちのアリの幸福感(目的をめざして苦労にも耐えてその過程も楽しむ)に近いものです。ただこの幸福の目ざす目的は、金銭や財産、健康や長命、娯楽やスポーツを楽しむなどの現世享楽的な目的であって、精神的哲学的宗教的内容のある内面的な心の平安・快楽を目ざすものではありません。
例示)
・人生における創造的達成目標の実現過程:名誉や地位、財産、事業や趣味等を持ち、創造的活動(過程)によって幸福(快楽・満足)を得る。確かな目標(人生への希望、夢、信仰、想定される快楽等)を実現する過程で、多少の困難も乗り越えられる。現代社会で推奨されている生き方は、ほとんどこの過程的幸福を目ざしています。生存競争(地位収入名誉等)に勝つことを生涯の目的にすること。貨幣を蓄積して物質的安定を得ることが、生涯の過程的幸福につながります。過程的幸福は、欲求や感情を抑えて常に向上心(言葉の刺激と意志的感情注※)を持ち信念を実現する。
・死への態度:目標・関心が死に優先し、死を達観した人生観。人生への挑戦に成功(または満足)して泰然として死を迎える。「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」(『論語』先進)
・恋愛と友情:共に動物的起源を持つが、人間の場合は言葉による刺激(「I love you」、または「 I d'ont love you」などの発話)が双方の幸福感情を決定づけ、信頼(または断絶)が永続化する。
・消費性向と満足度:計画的・理性的・目的的。競争活力・排他的成功志向と虚栄心、または互助互恵・連帯志向とヒューマニズム
 注※ 意志的感情:言語で表現された目的(就職祈願、登頂成功等)が言語刺激となり、行動意欲(元気・勇気・励み等)をもたらす感情。例えば、「頑張れ!」「祈れ!」となどという表現が、勇気や救いの感情を引き起こす人間特有の感情。(参照ここ)  ☞ ワクワク感、期待、希望、夢、努力、訓練。苦痛etc

 

3)【永続的幸福】は、外的環境の変化や流行に囚われない「内面的(内言的)な自己コントロール過程(精神集中、瞑想等)」で、心に生じる生理的欲求(安心、飲食、恋愛)や感情(快不快、好悪、苦楽)を抑制しても、精神的欲求の充足と感情の平安・平静を永続的に獲得できる幸福(感)です。このような幸福は、欲求と感情にまかせて日常生活の中で無自覚的に過ごしているだけでは、残念ながら得られない幸福です。人間は欲に手足の生えたもの、感情の動物と言われますが、また永続的幸福や安心立命を実現した聖者になることもできます。
 インド独立の父であり、ヒンドゥー教の求道者であったガンディーは、日常の政治活動の中で宗教者としてヒンドゥーの教義を実践しました。彼の言動は聖者といわれるのにふさわしいですが、彼の哲学は科学的とは言えません。例えば、彼は『獄中からの手紙』で「すべての外的恐怖は、なんの根拠もない、わたしたち自身の幻想の産物であることがわかります。冨や家族や肉体への執着を捨て去れば、恐怖はわたしたちの心中に巣くうことはありません」(森本達雄訳 岩波文庫p52)と言っています。しかし、彼が「幻想」とみなした「恐怖という感情」は、実は生物学的生存の生理的メカニズムであり、抑制・制御はできても消滅させることはできません。また彼は「神の実在」を信じましたが、それこそ人間固有の言語的幻想に過ぎないものです。とはいうものの、彼は永続的幸福を体得した「偉大な魂(マハトマ)」の所有者でした。

 ガンディーの信奉したヒンドゥー教の教えは、仏教やジャイナ教にも通じるものがあります。この点は、言語を獲得した人間たち(ホモサピエンス)の内の多くが現世における永続的幸福を求めて追求し、様々の着想を得て確立してきた神話や哲学、宗教教義にあらわれています。その中でも自己省察にもとづいて、科学的臨床的心理学と親和性があり、もっとも深く幸福や心の平安・悟りについての解答を見いだしたのがシャカ族の尊者(釈尊)である仏陀ブッダ)と思われます。この点はすでにⅱ.幸福のための心理(1)で述べたところです。
 それに対し、インドの貧民の救済に尽くした聖女マザーテレサは、クリスチャンとしての信仰に導かれ、イエスの受難(十字架刑)の意味を正しく実践しました(犠牲となって神に奉仕すること)。しかし、修道女としての人間的内面は、霊的指導者(神父)たちのキリスト教義上の解釈とは異なり、幸福なものでなかったと思われます。「私の魂の中では、神がわたしを望まれず、神が神でなく、神が実在しないというその喪失による激しい痛みを感じます。わたくしはその闇に取り囲まれています。魂を神に引き上げることはできません」(『来て、私の光となれ』里見貞代訳 女子パウロ会2014 p314)という「イエスに宛てた告白の手紙」は、「神の道具」として神と一体になるという宗教的な信仰であっても、現世での幸福を目ざさなければ永続的幸福は期待できないと思われます(来世で永遠の生命を得る確証がない)。

 さらに言えば、貧困は神の業ではなく、貧困を創り出す人間の歴史的社会的な関係やしくみの結果だったのです。聖者(神の子)イエスと聖女マザーテレサは、「神の愛に依存する人間の魂(罪人としての精神)」の救済をめざす究極の聖なる生き方でした。しかし、彼らには歴史的伝統的教義(虚構)の限界の中で、貧しい民衆が自らの存在を自覚し、人間(言語を持つ生命)として、現世での永続的幸福を獲得する希望と歴史的社会的役割(社会福祉の充実)を実現する智恵と勇気の必要性を理解することはできませんでした。(彼女の心の闇の意味は、さらに究明される必要があります。いずれにせよ、20世紀はもはや救世主イエスや聖フランチェスコの時代ではありませんでした。The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice by Christopher Hitchens 参照)
例示)
・精神的・内面的幸福:刹那的・過程的幸福は、主に幸福の対象が物質的・外在的・生成消滅的ですが、三大宗教では、空想的な「死後の永遠の生命」に続く永続的幸福が、経典や教義によって精神的・内面的に保障されるという信仰です。しかし、今日では科学的認識が普遍的認識方法となり、旧来の宗教は空想的・非科学的・不安定的となったため、永続性への確証がありません。今日では科学的(臨床)心理学を基礎にした科学的・普遍的知識(新たな学問体系)とそのための研究・教育が必要となります。永続的幸福の確立には永続的知識(真理)の探求、すなわち人間真理成立の前提となる「知識とは言語である」という生命言語論の理解が必要となるのです。
・死への態度:高等動物は仲間や子どもの死を悲しみます。人間は死を想像(予想)して不安と恐れを抱きます。しかし、永続的幸福は死の不安を乗り越えている心の状態(悟り、涅槃)です。それはまた、生への満足と自然・人間・家族・朋友への感謝の情を表せることでもあります。
・恋愛と友情:民族性や利己主義、ジェンダーを越え、共通の人間性(善性・良心)に由来する人間的連帯感(相互的優しさと思いやり⇒慈悲・仁愛)が必要になります。
・消費性向と満足度:肉体と精神の調和と抑制は、精神による知的作業であり、永続的幸福のためには、永続性のある科学的知識を価値判断の条件にします。そのため、偽善や名誉等の外的虚飾を求めないことに満足を見いだします(仏教経済学、価値観の変更)。

 

■ 永続的幸福とは何か?

 かつて人間は、精神(魂)的存在を永遠の実在と考え、肉体の滅びる死後の世界も、何らかの形で存在しつづけると考える傾向がありました。死後には現世での行為が評価され、善行や信仰の程度によって、「天国・楽園や極楽」での永遠の生命や幸福が得られるか、または、悪事を働いた場合、特に背教に対しては「地獄や冥土」での永遠の苦しみを受けると考えられていました。しかし、科学的思考が普及した現代では、精神の永遠性や死後の世界を信じる人は少なくなりました。今日多くの人は、刹那的幸福か過程的幸福(成功)を求めて、人間にのみ可能な永続的幸福の人生に思いを馳せることができず、自己の安心快適な生活のみを求めています。それらは物質的な豊かさ便利で快適なことのみが求められます。
 「永続的幸福とは何か?」これは精神活動の内でも、科学的知識にもとづく言語的統制(理性・知性)によって導き出すことが可能です。それによって誰もが自分の心の中に心の平安や永遠性、慈悲や仁愛のような意志的感情(「心の平安」のような言語概念を刺激とする人間特有の感情反応)として引き出すことができます。それは刹那的幸福(快楽)、過程的幸福を目ざす「希望や野心等」の意志的感情のもとでも可能ですが、もっとも確実に得られるのは、精神集中による思考や創造力をはたらかせる瞑想状態のもとで、永続的幸福を求める知識(言葉)に導かれてそれを実現できるのが一般的です。美観や美味、享楽や性的アピールなどの外的刺激があれば、知覚的誘惑に弱い精神(心)は乱されやすくなります。しかし一度精神統一の境地や永続的幸福を得れば、外的欲求や感情にとらわれても永続性を回復するのは容易になります。そればかりでなく、永続的幸福を体得すれば欲求や感情による外的幸福(快楽)に誘惑されても、知識と経験によってそれらを制御し永続的・内面的・精神的幸福や心の平安を保持しつづけることができます。
 永続的幸福を体得するためには、決して出家や修道生活の継続を必要としません。永続的幸福の体得とそれを支える知識があれば、利害得失の絡む社会活動に積極的に参加することが可能です。むしろそれによってさらに人生を豊かにすることができます。しかし、刹那的快楽は甘美で無限の誘惑がありますので、日常的に自己省察は必要となります。やはり既存の宗教行事や研修会におけるように、一定の時間と場所を設けて、相互確認をしながら行う定期的な瞑想や三省が必要です。今日では「民衆のアヘン」である宗教に替わって、営利を求めるマスメディアが、日々民衆の洗脳(愚民化)を行って刹那的幸福を与えているわけですから、持続的循環型(小欲自足)の社会のイデオロギーとしての永続的幸福論はよほど強力でなければならないと思われます。

 

 

 

 

 

 

人間と動物との違い

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河口湖からの富士山が一番好きです。

★ 人間は動物の中で「何が特別」なの?

◇ 人間は「言葉を持つ」ことでどう変わったの? ・・・・・・・・中高校生向き

                          人間存在研究所 山田 武

① ぼくたち人間はいったい何者だろうか?日本では昔からそんなことはあまり考えなかった。でも、人間や民族どうしの対立が絶えなかった大陸諸国では、そのような争いの中で人間どうしが悲しみや絶望を経験しながら、いったいぼくたち人間は、ほかの動物とどう違うのかと考えてきたんだ。大昔、未開の社会では、自然の中の強くて不思議な動物や自然現象から生きるパワーをもらっていた。けれどそのうちに、人間は他の動物とは違うことに気づいて、自分たちの祖先や自分たちの運命を決める強いパワーを持った超能力をもつ「神々」を考えて、空想のなかで自分たちの存在の意味づけをしようとしたんだ。それが各民族が持つようになった「神話」という物語だ。

② その後、様々な超能力者があらわれ、ユダヤ教などでは、動物は人間より劣る自然の一部で、人間が生きるためや神に仕えるため支配の対象にされてしまったんだ。つまり、人間は神によって神に似せて造られ他の動物を支配できる「万物の霊長」とされたのだ。でも科学とりわけ進化論や生物学の発展によって、動物と人間との違いはそれほど大きいものでないと分かってきたんだ。人間は、直立歩行や自由な手の使用で動物と区別されることも多いね。けれど、人間の賢さや他の動物との違いは、直接的な知覚や行動に左右されず、脳の中で使える言葉(内言)で考え、その情報(知識)を言葉で整理し交流できることなんだよ。

③ ふつう言葉は意図や情報(知識)を伝える手段と考えられているけれど、伝達の前に情報・知識の内容を明確にしてから伝える必要があるよね。「えーと、えーと何をどのように話せば良かったんだろう」、と話す前に疑問(what, how,why etc.5W1H)を解消してなければならないからね。また、話ながらでも「ああでもない、こうでもない」と言葉で考えながら話すよね。でも動物は,知覚対象から独立してゆっくり考えようとすることができないんだよ。賢いといわれているチンパンジーだって、音や叫び声などに反応することはできるけれど、目の前にあるものでないと考えることはできないんだ。人間の言葉のどこが特別なのかといえば、言葉を使って目の前にない刺激やイメージを頭の中に想像(創造)し、言葉で表現し伝えることができることなんだ。

④ でもそれでほかの動物より偉いということはないよな。そんな言葉のパワーを持った人間のすることは、愚かなことが多いよね。人間は、神を創って自分の力や正しさを説明したり、自分の主張に従えようとしたり、わざと誤魔化し平気でウソをついたりするんだ。動物にも敵をあざむく知恵があるけれど、人間の場合よりも単純で自然の秩序に従っているだけなんだ。人間の場合は、自然自体を破壊していることに気づかないどころか、自分だけは神に守られているから、死後は幸福が保障されていると考えている宗教もあるんだ。

⑤ そのような人たちの中には、戦争や災害が起こっても「信じる者は救われる」と言って、人間の起こしている悲劇に責任を感じないで、自分たちだけの幸福を考えてしまうんだ。このような人たちが、人間と言葉についてよく知ったなら、きっと世界の平和が来ると思うね。なぜって、人間は言葉を持つから賢いといっても、他の動物と同じように限りある地球で、共通の生命の祖先を持ち、やがて死んでしまうのだからね。それが分かるのも言葉を持っているからなんだよね

(※1)「神話」について:

人間は、言語を持つことによって、自然や社会の現象について、その因果関係(何がどのようにあるかwhat, how、なぜwhyあるのか等)や現象間の関係性等(5W1Hや文法的表現形式・・・・・前置詞・助詞構文、形容詞比較級等々)を問うようになった。言語は、高等動物(おそらく哺乳類以上)が、厳しい自然環境の中で生きてゆくために、仲間・敵・食糧・安全等を確保するための認識能力を情報の伝達や記憶の蓄積によって飛躍的に高めた。

未開社会においては喜怒哀楽を引き起こす単純な因果関係で、精霊や神秘的自然現象のパワーに対する祈りや儀式で心を勇気づけていた。しかし自然を観察し、現象の事実に即した思考が働くようになると、より論理的説明が必要になってきた。つまり、なぜ死ぬのかなぜ生きているのか、季節の移り変わり、雨の降る原因、凶作の起こる理由、天変地異の原因等々より説得力のある合理的な説明・意味づけが必要になってきた。

とくに農業の普及によって余剰生産物がうまれ、社会秩序を維持・統合する権力者が現れると、自らの権力の正当性を意味づけ説明する必要から、より説得的な合理的物語が必要とされた。そうして創られたのが神話である。日本では、『古事記』『日本書紀』に見られるように天皇制を権威づけるため「天孫降臨」の神話が作られ、八百万(やおよろず)の神々を祭る神社によってそれぞれの地域の人民の生活の安寧(あんねい)を図る信仰の対象とされた。ギリシアでは、各ポリス(都市国家)にふさわしい守護神(アテナイには女神アテネ)がアクロポリス神殿に祭られ、各ポリスの秩序と統合の役割を担っていた。エジプトやメソポタミア、インドや中国の文明においても、神々の特徴は異なる神話が作られたけれども、その内容や意義はそれほど変わることはない。

(※2)「言語」について:

 

類人猿の認知と判断・思考 

 ――直接的・感覚的・直知的判断による問題解決―― 

 動物的思考すなわち直観的認知と判断は、欲求を充足するための問題解決(例えば狩をする)のために、過去の学習経験と直接知覚的状況に基づいて行われる。この様な思考は狩猟行動等と直接結びついている。獲物を知覚しながら、相手の状況に応じて最善の行動を取ろうとするのである。人間のように狩猟行動をする前に、作戦を立て仲間と打ち合わせて共同行動を取ることはない。そのような「行動と直接結びついた認知や判断」を、動物的思考と名付ける。このような思考は、類人猿のように高度な認知や思考能力を持つ動物にも当てはまる。類人猿のリーダー(ボス)は、グループの力関係に常に注意を払い、行動と独立に思考しているように見えるが、実は状況の緊張の中で「行動を抑えているという行動の中で思考している」のである(思考が完全に行動から独立して脳内で行われるとき人間的思考が成立する)。

 

 人間を含めた動物が、どのような問題状況の中で、どのような思考・判断により、どのような行動を取るか。その判断基準は、本能的反応を除いて経験的に学習される。例えば以下のごとくである。

 

模倣:他者の経験的判断・行動の自発的・本能的学習。動物が適応的に生存するために、他者(成獣)の適応的行動を学習するのは最も合理的な生得的適応方法である。

 

洞察:動物の場合、状況を観察しながら過去の学習経験(情報)を関連づけて的確な判断をする認知活動。対象の状況への直接的判断を超えて、時間的空間的に離間した状況を見通して適応的判断を行う。類人猿において最も優れた洞察力を持つ(ケーラーの実験等)。

 

学習:刷り込み(本能的学習)、試行錯誤、条件反射、刺激般化等によって適応的反応・行動様式を獲得すること。どのような学習経験を獲得したかによって、後の適応的行動選択(判断・思考)に影響を与える。

 

シンボル操作:多くの動物(例えばハト)では、シンボルA(例えば音声刺激”まめ”)によってシンボルB(例えば図形刺激「まめ」)を選択的に指示することが学習(訓練)できても、その逆であるシンボルBによって「学習(訓練)せずに」シンボルAを選択的に指示することはできない。この様な逆推論が学習なしで可能な動物は類人猿等に限られるとされる(刺激等価性─逆推論が可能であっても、動物の逆推論への関心を実験的に観察するのは難しい。言語を獲得した人間の幼児では容易に可能である)。

 

類人猿によるシンボル操作は、創造性をもたない 

 人間に最も近い類人猿ボノボチンパンジーは、人間のように知覚的状況から離れて話すことはできないが、かなりの記号的状況を理解し操作(記述)することができる。類人猿は、言語などの記号(シンボル)が、「目の前にはない対象」を象徴(指示)していることを知っているだろうか? S.サベージーランボーは、ボノボについて「ボノボは、大きさから言っても姿から言っても、チンパンジーではない。彼等はむしろ、小さな脳と格別に長い体毛を持った人間と言われるのがふさわしい。」と述べている。彼女は、カンジと名づけられたボノボの研究において、キーボードを利用した図形記号による簡単な会話を行い、英語の構文を理解し記述し適切な行動ができたことを報告している(S.サベージ-ランバウ, R.ルーウィン『人と話すサル「カンジ」』石館康平訳 講談社1997)。つまり、図形記号(シンボル)の組み合わせによって示す意味内容を、実際の状況ではなく「頭脳の中に再構成」し、表現伝達していると考えられる。この報告では、実験者の態度を読み取る「賢いハンス(計算できる馬の名前)」効果ではなく、対象の状況を自ら主体的にキーボードを用いて図形的に記述できる。これを人類学者バーリングの関心に従って検討してみよう。

 

 「カンジは、最初に要求を耳にしたときには、その物も場所も見えない場合でさえ、部屋の外へ出て、特定の場所から物を取ってくることができた。」「カンジは、語順に意味がある3種類の文に正しく対応できた。『ボールを岩の上に置いて』か『岩をボールの上に置いて』か、語順が重要な形式をしている43の礼のうち33例(79パーセント)に正しく応じた。」バーリング,R『言葉を使うサル』松浦俊輔訳 青土社 2007 p25-27)※(注)

 

 この「天才サル─カンジ」は、確かに驚異的な人間とのコミュニケーション能力(信頼関係)をもち、人間並みの認知力、理解力、シンボルの操作・構成能力を示している。しかし、人間言語との決定的な違いは、「音声操作能力の有無」である。音声言語をもたないことによってカンジは、自己の動作と母音中心の叫び声、そして与えられた図形文字の範囲内でしか自分の意志を伝えることはできない。また実験者に首輪をはめられ、自己の意志と表現内容まで実験者に支配されている。サベージ-ランバウが類人猿の認知やシンボル操作によるコミュニケーション能力の卓越性を実証したことは、特筆すべき研究成果であるが実験者と被験動物、自由な人間存在と拘束された類人猿のこの力関係の差こそ人間言語の決定的優位性を示すものなのである。彼女は人間特有の音声言語の意義を過小評価して次のように主張する。

 

 「もし類人猿が人間と同じように、教えられることなしに言語を習得することができるとすれば、それは人間が動物とはまるでかけはなれた、独自の知性をもっているのではないことを意味する。たしかにホモ・サピエンスは、会話に適した音声と、道具をつくる能力を与えられている。しかしこれは、彼らが他の生物とはちがった次元でものごとをとらえていることを意味しない。カンジが見せてくれた言語習得の過程は、言語の理解こそが言語習得にとって他の何よりも重要であることを劇的に示してくれる。言語を音声として発するということは、適当な器官が備わっていれば可能な、副次的な処理機能の問題なのだ。しかし言語の理解は、概念的な把握の問題、つまり音声の背後にある音声に込められた意味の問題であって、カンジが理解していたのはまちがいなくこれなのである。」(『人と話すサル「カンジ」』 p200 下線は引用者による)

 

 彼女は、音声信号(言語)や図形信号(文字)の示す意味概念を理解すれば、人間言語と図形文字の違いはほとんどないと考えている。しかし、これは人間言語の浅薄な理解に由来し、類人猿に対する実験観察行為が、研究者の言語的優位性に基づいていることに無自覚であることを示している。別項(類人猿研究の限界)で詳しく説明するが、人間言語は音声信号の意味理解だけでなく、その信号の脳内での内的な操作(文法的思考・情報操作・対象の再構成)とも関わっている

 

 彼女が報告しているように、類人猿は音声言語をもたないが、人間に近い高度な認知洞察判断能力を持っている。そして、彼女も音声言語(信号)による内的情報処理(人間的思考)だけは、類人猿には不可能であることを認めている。だがこの音声信号による情報処理が可能か否かが、人間と類人猿を距てる決定的な深い溝なのである

 

 つまり人間言語の特徴は、意味の理解や意図の表出だけでなく、音声信号の処理(情報処理=記憶・思考)による言語的創造(想像)の能力にあり、それによって自然的世界を超えて人為的世界(文化)を創造することにあるのである。彼女は人間言語に伴う人間の創造性については一切述べていない。類人猿は、研究者の巧妙な統制と信頼関係のもとで、高度な認知的能力や信号操作能力を発揮することができる。また類人猿の自発的学習や創意が見られる。しかし、人間言語のような社会性や文化的創造性をもたないことは、誰の目にも明らかであり、この特徴の欠如こそが類人猿の限界を示すものなのである。

 

※(注) ボノボの優れた言語(人間の発話と図形シンボル)の理解力・記憶力(2000語以上の英単語)と図形の操作表現力、人間並みのコミュニケーション能力。名詞、動詞、形容詞の文構成能力等々。また実験者の言語指示”Take the umbrella outdoors”と”Take the umbrella indoors”を区別して実行したのは46回中38回で約80パーセントの正解率、3つの単語の構成課題の正答率はほとんど8割前後であった。

 

 

 

人間とは何か?

あるブログを利用していたら、公開の仕方が勝手に変更され検索できなくなりました。このHatenaBlogは日本的で、学術的な投稿も多いので安心できます。やや難しいですが、「人間とは何か」について、新しい根源的な視点から提案しています。よろしく。

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富士山大好きです。私が撮りました。

Q.人間とは何か?

A.(基本的解答) 人間とは言葉を獲得した生命である。 人間は、自己と世界(自然と社会)を言語化し、それらすべてを「言語的に意味づける」ことによって生きています。言語的に意味づけるとは、「いつwhen、どこでwhere、何がwhat、どのようにhow、なぜwhy」(5W1H)等の疑問を解明し、空想を含むすべての対象の関係を文法に従って表現することです。言語的表現は、文として知識や法則となり、自然現象の理解と利用を効果的に行い、自己の価値観や行動、そして社会関係の規制を行います。言語の理解は、人間や自然や社会の認識、そしてすべての学問の基礎(認識論:「知識とは何か」という学問)となります。 人間とは何かの疑問に答える生命言語説は、今まで解明できなかった哲学を中心とする学問上のすべての難問(アポリア)を解決します。

 

Q.人間の「言語の特徴」を簡単に説明するとどうなりますか?

A.言語という音声信号は、伝達するべき情報を正しく構成・表現する必要があります。伝達する内容が正確に表現できず、相手に誤解されるようでは生命の危険にさらされる場合もありえます。そこで情報を正しく伝達するには、対象の正確な構成・表現が必要となり、問題の対象(名詞what)とその状態や関係(動詞how)を的確に表現するための約束(文法)が作られました。この人間言語の文法の特徴は、音声表現が行動から独立して大脳内で(内面的・間示的・二次的信号情報として)表現・構成できるるということです。

これに対して、他の動物の情報伝達では、音声信号が認知や行動と直接刺激反応的(直示的・一次的)にしか表現できないことです。人間の言語的思考が創造的であるのは、認知や行動と独立して、対象を内面的に言語操作(内言・独言)し再構成することができるためです。

生きることと言語の関係:

生命には生存の維持・存続という意味(目的)があり、生命として言語を獲得し生命進化の頂点にある人間は、その生命存在の意味(個体と種の存続)を言語的に的確に表現し(「生き続けよう」と)、体現しなければなりません。言語獲得の意義は、生命が環境の状態(刺激・情報)を言語的に認知し、社会的(相互的)に伝達・共有して、言語的思考(理性・ロゴス)によって的確に生存活動を行えるようにするものです。ただ、認知や伝達には誤りや意図的な欺き・嘘があり、道具としての言語は十分慎重に検討して理性的に使うのが望ましいものです。

 

Q.「人間とは何か」を解明して、どんな意味があるのですか。

A.現代社会の混迷・閉塞状況のすべてを解決できる道筋が明らかになります。それがこれからの時代を基礎づけることになる「人間存在論」「生命言語説」です。人間について考えることは、自分自身と自分の生き方について考えることでもあります。この混迷の時代こそ、「人間とは何か?」について考え、この世に生きることの意味をつかんで、俗説や誤解に惑わされない、迷いの少ない人生を送りましょう。

 

Q.初めての人のための「人間存在論があるとすれば、どのようなものとなるでしょうか?

A.それにはまず「人間とは何か?」について考える必要があります。人間とは何かを明らかにするには、他の動物、特に高等動物との比較や、そもそも「生命とは何か」についての知識も必要です。

すでにそれらの問については、当研究所のホームページで説明していますが、とりわけ今までの哲学や心理学で解明されていなかったその特徴は、「言語」を人間の「認識や心の解明」に明確に位置づけ、「言語が人間の本質である」とした点です。それによって学校教育や大学の研究で今まで正しいとされていたこと、常識とされていたこと、謎とされていたことが新たに解明され、学問・知識・科学(特に人文科学)の根底を変えることになります。

例えば、心理学においては、「心の構造」の三要素(欲・情・言)仮説による人間心理の全体像(「生命言語説」)の提案、臨床心理学においては、生命言語説によるカウンセリングの提案と仏教の現代化哲学においては、古代以来の観念論と唯物論の対立の止揚政治学においては、天賦人権説による社会契約や唯物史観による社会主義の限界性の克服、経済学においてはスミスの古典派経済学における市場原理主義(等価交換)の誤りと経済学への道徳性の導入、宗教学においては、神仏に依存する伝統的宗教の欺瞞性の解明、さらには、成長の限界の先に予想される地球社会の争乱の防止、世界連邦の設立と日本国憲法の改正など、今日の世界の閉塞状況を打開する展望を示しています。

初学者にとっては、初めは難しいかもしれませんが、現在の教科書的な知識に疑問と不信を抱かれるならば、必ず「生命言語理論」の全体像が明らかとなり、自己の人生における為すべき意義を見いだされることと思います。

 

Q.人間の本質が言葉ということは、どんな人たちが、どのように言っているのですか。その説明は貴研究所の見解とどのように違うのですか。

A. 人間とは何か」「人間の本質とは何か」「言語とは何か」で検索すると、その答えの一部が分かります。

「人間の本質」という言葉の検索で分かるように、ネットに掲載されている著名人は、言葉の使い方があまりよく吟味されていません。「人間の本質」 と「人間性の本質」は根本的に違います。善や悪という価値観は、「人間性」から生じるのであって、「人間」そのものは価値観から中立的なものとしてとらえるべきなのです。

そこでわれわれは、 「人間とは何か」と「人間はどうあるべきか、どのように生きるべきか」を区別して、まず人間についての科学的に検証可能な知識を求め、ついで人間・人類・私たちは、いかにあるべきか、いかに生きるべきかということ(生き方、在り方、倫理、道徳、価値観)を求めます。その際科学的知識の出発原点は何かというと、それは「人間にとって知識とは何か?」ということになります。

この問は古来より「認識論」として知られ、哲学上の難問とされてきました。哲学上の様々の立場(大きくは唯物論と観念論の対立)は、すべて知識とは何か、知識を構成する「論理とは何か」という問に帰結します。こうして今まで十分な科学的知識もないままに、世界と人間についての絶対的な判断基準が求められてきたのが、哲学上の論争だったのです。

唯物論として有名なマルクス主義も、「科学的」という枕詞を付けているものの、彼らの理論「唯物弁証法」や「唯物史観」の知識が、人間の認識にとってどのような意味・制約をもつのか、歴史にどのような役割を果たすのかについての吟味は不十分なために、その理論(に対する信仰)によってスターリンポル・ポト等による大虐殺を引き起こしてしまいました。これは観念論を代表するユダヤ教キリスト教イスラム教などの創造神宗教についても同じこと(知識の絶対性に対する信仰と排他的残虐性☞天国や地獄の想定)が言えます。

しかし、われわれの「生命言語説」では、知識を絶対化しません。というか、絶対化しないことを絶対化します。それは、知識が言語によって成立しているということに起因します。そこから「言語とは何か?」という問が生じます。この問の解明のヒントは、言語は「表現・伝達の手段」であるとともに「認識・思考の手段」であるということです。これは“よおーく”自分の言葉を反省・吟味して考えてみてください。

 

Q.言語の起源を、生命言語説ではどのように説明しますか?――言語の起源論争に終止符を打てるでしょうか new!

A.乳幼児の言語発達は、人類の言語進化を繰り返す

われわれ言語を獲得した人間が、宇宙や生命や神の存在を含む森羅万象(all what・全対象)を、どのように認識して、それらを言語によってどのように表現・伝達するか?この問いが言語の起源を解明する鍵になります。

つまり、言語の本質は、①情報や意図の伝達と②それらの内容(意味・概念)を認識・表現することにあります。言語表現の本質は、生命の生存様式(環境刺激・統合・反応様式=刺激反応性)に淵源があり、これを理解しない限り言語の起源の解明には到らないということです。

まず生命(細胞)は、地球という特殊な環境から、特殊な物理化学反応によって誕生したものであり、無限に多様な外部環境(外界の刺激)に対して、不断にエネルギー代謝と安定・安全の維持を目的とする適応的反応を持続させる必要があります。このため、動物においては積極的に適応的環境を選択し、また維持しようと、自己の属する生存環境を知覚・認識し、適応的な反応行動を取っています。地球環境は多様であり、個々の種は自らの環境に応じた生存様式を持っています。多細胞動物においては神経系を発達させて中枢系で判断・統合し、環境への適応的反応・行動を行っています。

環境への適応的行動は、個々の個体にとっても種の存続のためにも、社会集団を形成しその集団間の的確な情報伝達は、個体と種の存続の成否を決定します。そのためすべての多細胞動物は、種に応じた知覚・伝達機能を持っています。軟体動物、昆虫、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類等それぞれの種は、それぞれの外界に応じた知覚機能と神経系を持ち、得られた情報を認識・選択・判断して、直接・間接の接触から、臭い、音、視線、動作、音声など様々な方法を用いて得られた情報と意図を伝達します。それらの知覚・統合・伝達機能の中で人間の言語は、音声を通じて認識内容や意味・概念・知識を相互交流する進化の最高形態です。

では一体人間の音声言語はどのように進化発展してきたのでしょうか?

生命言語説による言語の起源の捉え方> ・・・・・ ここに続く  言語起源と進化論 重要!!ダーウィン自然選択説批判

 

Q.人間と他の高等動物(例:チンパンジー)との違いは何ですか?

A.人間は、二足歩行・手の自由による大脳の発達と発声の分節化(言語の獲得)によって、認識・思考能力や情報処理・伝達学習機能が飛躍的に高まり、道具の製作や火の使用、社会組織と行動規範、宗教・文化・芸術・娯楽等が複雑に発展しました。とりわけ人間の創造的機能は、言語的認識と行動制御のはたらきによるものです。

チンパンジーも高度な情報処理・伝達能力を持ちますが、直接知覚できる(直示的)対象に対してしか反応(情報処理と行動)を示しません。言語信号という第二信号系を持たないため、知覚を遮れば情報処理ができない(関心を持てない=言語の未熟な人間の幼児も同じ)のです。それに対して人間は、言語信号(内言)のみによって、情報を処理(思考)することができます。だから両者の決定的な違いは、言語の有無にあり、人間の本質は言語であると言うことができます。

 

Q.人間は、他の動物と比べてなぜ賢い(サピエンスsapience)のですか?

A.高等動物は、種の存続のために社会性を発達させて、動作や表情や鳴き声で相互の意思疎通を図ります。例えば、仲間との互助・協働・安全や、敵に対する脅威や戦い等のために、仲間や敵という「対象の状態と自己の意図(無限の情報)」の正確な認識・表現・伝達の必要性があります。安全と危険の混在した環境(対象what)をどのように認知・把握し、どのように的確な適応行動をとるか(思考・判断how)は、生死にかかわる問題です。

人間は、これらのことをより的確に行うために、音声信号としての言語を駆使します。他の動物での音声信号は鳴き声であり、常に行動反応とともにあります(直示的反応)。しかし、人間の音声信号(言語)の特徴は、対象の情報を行動から独立して創造的に再構成し(what, how,why)、相手に情報を伝えることです。対象についての情報は、音声信号(単語)を文法に基づく文として再構成します。

人間は生後から幼児期を通じて、養育者の会話から自然に単語や文法を学習し、自分の欲求を実現するための生活行動に(直示的に)応用していきます。そのうち、遊び(行動)の中で独り言(外言)が始まり、日常の中で内的に(音声を出さずに)言語的情報処理が行われ(内言)、複雑な状況に応じて様々な文法を駆使した言語的思考・創造へと発展していきます。

例えば、道具や火を使う場合、他人の行動を模倣しながらも、使用(道具等の制御)が困難になると、言葉を用いて対象と身体の関係を再現・工夫したり、他人に聞いたりします。動物も訓練を通じて身体で芸を学びますが、人間は他人(訓練者)が不在でも、また餌などの直接的誘因が無くても、自らの間接的(創造的)目的を実現するために思考・行動することができます。これができるのは、言語という内的情報処理(思考・記憶)手段があるためであり、他の動物と比べて賢い人(ホモ・サピエンス)といわれる理由なのです。

 

Q.人間の本性は理性ではないのですか?理性と言語の関係を教えてください。

A.理性が人間の本性であることは間違いありません。しかし、理性という概念が感性(欲望や感情)に対立した価値的意味(理性は感性よりも高級)を持つので、人間の本性を理性とみなすのは誤解を生じます。理性が優れている人間もいますが、言語的思考力を駆使して感性と欲望のまま生きる人間(例えば独裁的権力者)でも、人間として価値があることには変わりありません。

この点、言語を本性とすると、いかに欲望や感情に従って思考・判断・行動しようとしても(例えば、独善的な人が悔しさや怒りにまかせて屁理屈や悪知恵を働かす場合や饒舌家でも)、同じ次元で人間ということができます。理性は人間にしか当てはまりませんが、すべての人間に当てはまるとは言えないので、「人間の本性は言語である」とする方が普遍的に当てはまるのです。

「理性と言語の関係」は、理性的思考が必ず言語的におこなわれ、欲望や感情をコントロールする場合にも、意志的感情内言語的・目的意識的に精神・心を統制する持続的感情)のはたらきによって、座禅や瞑想・祈りをする場合のように、持続的に理性的であることができます。つまり、理性とは、社会的価値の低い欲望や感情に支配されないで、逆に自己自身を統制することができる思考能力のことであり、情欲の強い人が自己をコントロールするには、不断の言語的刺激(情報・メッセージ:例えば「隣人に情け深く優しくありなさい。」「よく考えて行動しなさい」のような自己への指示:内言、理性的コントロール)が不可欠となります。

 

Q.生命が生きるとはどのようなことですか?

A.参照生命とは何か

地球という特殊な環境の中で誕生した生命には、「個体と種の維持・存続」という根源的な衝動があります。生命にとって「生命状態を存続させる」ことが生きるということになります。ところが、地球環境は多様であり、必ずしも生命存続にとって安定的なものではありません。そこで生命状態自体も多様な環境に適応するため、多様な存続形態を取ります。生命の進化は決して発展や進歩をめざすものではなく、多様な環境における一つの適応様式なのです。

 

Q.生命はどのように自己と環境を制御(コントロール)していますか?

A.参照認知と行動の原理

 

Q.生命はなぜ適応様式の進化があるのでしょうか

A.生命の生存する地球上の自然環境(風土:地理と気候、海洋)は無限の多様性・複雑性に満ちています。個々の生命(種)はこれらの多様な環境の一部にしか適応する能力を持ちません。気温や湿度(水分)、地形等の多様性のすべてに適応する種は存在せず、それぞれの種がそれぞれの環境に適応・生存しているのです。

つまり、進化とは生命にとって生存環境の多様性に応じた多様性の拡大・適応域の多様化ということに過ぎないのです。だから、進化した高等動物は、適応域の多様性・複雑性に応じて知覚と中枢と運動機能(神経系)を複雑化・精緻化・特異化してきたのです。単細胞、甲殻類、魚類、ダニ、ミミズ、トンボ、ヘビ、恐竜、鳥類、羊、熊、猫、猿、ヒト等々、動物だけでなく植物も、地上に生きる数百万の種は、それぞれ特異で多様な環境に進化・適応したのです。 参照⇒『人間存在論

 

Q.人間の心とは何でしょうか?「欲求・感情・言語」が、心の三要素とされていますが、「意識と無意識」という捉え方のどこが誤りなのでしょうか?

A.「心の構造」における「意識と無意識」の分類は、心の全容を知るにはほとんど妥当性がなく、むしろ人間の心の理解にとって障害になります。つまり、意識とは、単に環境刺激に対する認知・判断・統合による反応としての外的表現です。また、無意識は、動物的な認知・判断による刺激に対する自動的な反応であるか、または、言語的認識能力を持つ人間が、意識化したくない否定的感情を抑圧(防衛機制)して無意識的行動(暴力、いじめ、退行、神経症等)を取る場合があります。

しかし、心の働き(現象)として意識や無意識という用語を使用することはできますが、心は、基本的には個体と種を存続するための中枢神経系(脳)の働きです。脳内では、生存活動の動因としての欲求と、欲求が実現されているかどうかの基準となる快不快の感情反応がまずあって、それに加えて人間の心にあっては言語的知識が形成され、「欲求・感情・言語」が複雑に絡み合って心を形成しているのです。

だから、心や行動の一面を「意識・無意識」でとらえることはできますが、それは「心の構造」ではなく、「心の働きの構造」というべきものです。心(の構造)を理解する一助となっても「心の構造」ではないのです。

参照⇒「フロイト批判生命言語説の立場から無意識を考える」

 

Q.心の三要素のうちの欲求は、個体と種の維持・存続の動因であると言われますが、それは単に肉体的生理的なものだけでなく、心の動きとどのように関係しているのですか?

A.個体の維持に関しては、内的恒常性(ホメオスタシス)の維持が体内の生理的バランス(視床下部の中枢神経による制御:血液中の糖や塩、水分やミネラル濃度等)に、また個体安全性が危険からの防衛に現れ、動物においては一定の満足感となって終わります。しかし人間においては、空腹や安全が充たされても満足できないという心の特徴(欲求の習得的肥大性)があります。種の維持については、性的関係や育児・教育において社会的な役割や地位(家族、地域、学校、企業等)が目標とされ、競争や片寄った情報(偏見)に支配されてしまっています。人間の心は、マスメディアのもたらす刺激的(扇情的)な情報の氾濫によって、逆に心の安らぎを奪われ、神経症的な症状が生じる原因ともなっています。人間の心は、動物的・生理的欲求の充足だけでなく、言語的に創造(想像)された二次的な欲求の肥大化(もっと美味しい強い安心でありたいという欲求)によって、その実現や抑制・コントロールのために情動や感情も複雑化しているのです。

 

Q.言葉には、進化論的な発達段階があったのでしょうか?

A. おそらく、進化論的には、動物の直示的鳴き声初期人類の間示的一語文現生人類の主述構成文となりますが、ネアンデルタール人旧人)までの段階では一語文(的構成乳児期の発語)であったのが、クロマニョン人(新人・現生人類)の段階で、構成文が完全に可能になっていたと思われます。構成文の利点は、認識や表現において、対象の直示性が減少し「何がどのようにあるかwhat how why」の解明を通じて創造力が飛躍的に高まったことにあると思われます。 参照⇒言語の起源について

 

Q.道具や火の製作・使用と言葉の獲得とはどのような関係があるのでしょうか?

A.言葉には、一語文と主述(構成)文があり、後者は助詞・助動詞・形容詞、目的語や節等を加えてさらに複雑にすることができます。進化論的には、動物の直示的鳴き声⇒間示的一語文⇒主述構成文(二語文:単純から的確・複雑へ)となり、おそらくネアンデルタール人旧人)までの段階では構成文も可能となり(化石頭蓋骨から発声機能は不十分)、クロマニョン人(新人・現生人類)の段階で構成文が完全に可能(主述・目的関係性の表現)になっていたと思われます。但し検証は極めて困難で、主述の構成文が可能であったということと、必要性や現実性については不確定といわざるを得ません(幼児の言葉の発達を参考にする:的確に構成された情報伝達の必要性=言語の適応的進化)。 参照⇒言語の起源について

道具については、チンパンジーの場合、言語とは無関係で、偶然的に習得されたものとしてシロアリ捕獲棒や堅果割石等の道具が知られています。しかしこの場合、道具と使用対象の関係は固定的であって、一つの道具を複数の対象に用いるという応用性がありません。それに対し、猿人(アウストラロピテクス類)の使用した打製石器では、偶然性を超えた合目的的創造性を読み取れ、武器やナイフとしての汎用性が想定されます。猿人の石器製作には、チンパンジーに比べて、手や腕の運動コントロール機能の進化や使用目的に対する想像力(間接的イメージ化)が必要になります。

猿人は、おそらく動作を交えた一語文的な表現はできたでしょうが、言語として認定するには否定的見解もあります。しかし北京原人等(ホモ・エレクトス類)の火の使用については明らかに、火を永続的にコントロールできたことが知られます。原人の火の使用の場合、火を客観的に対象化することが必要ですが、言語も動作から完全に分離した一語の音声記号として存在できた可能性が高いです(一語文を言語と見なさない場合もあるが、動作と合わせれば多くの情報を客観的に表現できる言語であると言える)。

旧人であるネアンデルタール人は、大脳が発達しており、道具においては複雑な石器が製造され、埋葬の儀式をした痕跡や装飾品・毛皮が出土しています。そこで、言語については完全な構成文は無理であっても、死者への哀悼や死後の意味を考えたと思われるので、かなりの言語表現能力(動作を介さない名詞・動詞・形容詞等の構成文)があり、集団活動も言語を通じて行われたと考えられます。新人(現生人類)であるクロマニヨン人に至ってはじめて、文節音が明瞭化され、生活に関係のある森羅万象だけでなく、想像力も発達し、言語の複雑な構成と表現が可能になったと考えられます。

★ 言語の機能の進化 : ①情報・意図の的確な伝達 ②的確な情報の認識・思考・構成 ③情報の記憶

★ 道具の製作・使用 : 道具のイメージ(使用目的 : 切る・打つ・投げる・刺す・掛ける・釣る・握る等)の構想

自由な両手等を用いた加工、所有の永続性=音声言語によるイメージの確定・記憶