日本文化の可能性

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井山宝福寺紅葉。雪舟が修行した寺として有名


─日本文化の可能性─
        参照⇒日本文化論

                http://www.eonet.ne.jp/~human-being/bunka.html



 日本人は、いま心の閉塞状態にあり未来への展望を見失いつつあります。戦後の民主主義的価値観を支えるはずの市民的個人が確立せず、日本的伝統である「和の文化」に潜む「甘えと依存」の体質を脱しきれないで、国際的には経済的貢献を評価されても道義的な国とはみなされていません。靖国神社憲法改正の問題に見られるように、アジア・太平洋戦争(侵略、敗北、犠牲)の反省と責任を曖昧にしたままで、この無謀な戦争を肯定しようとする動きも強まっています。これらは単なる政治問題にとどまらず、日本文化全体の問題です。

 日本人は古来農耕生活の中で、自然を愛し人間の和や情緒を大切にする文化を育ててきました。しかし明治新政府による上からの近代化の中で、富国強兵の推進や立憲体制の確立を通じて西洋の科学技術や政治経済のしくみを導入し、アジアで唯一成功を収めてきました。そしてその急速な近代化の過程の中で、日本文化の負の側面が突出することにもなりました。それは上からの権威主義に依存し、情緒的で無責任な行動に走りがちなことです。具体的には、帝国主義的競争の時代、日清・日露の戦争に勝ち、台湾・朝鮮を植民地にして世界の一等国になり自信を深めた後、世界恐慌などの問題を解決するため、財閥の後押しや軍部の暴走によって満州事変を引き起こし大陸侵略(日中戦争など)を推進しました。そのため物量に勝る大国アメリカとの衝突となり、広島への原爆投下など未曽有の惨禍をもたらし敗戦となりました。

 無条件降伏後、戦勝国アメリカの連合国軍最高司令官マッカーサーは、日本にとって幸運をもたらす巧妙な占領政策を行いました。日本の文化的伝統を受け継ぐ天皇制を温存した上で、憲法9条に見られる徹底した平和主義を採用し、上からの民主主義を定着させようとしました。しかし日本的な曖昧さが残され、厳しい東西対立や南北問題など錯綜した国際情勢の中で、日本人自身が西洋的文化と十分な対決をせず、西洋的価値である自由・平等主義、民主主義、社会主義を無批判に受け入れ(または反発し)、日本人としての戦前の反省や未来への展望が開けぬまま、アメリカの核の傘に守られて、平和の幻想に依存してしまうことになりました。民主主義の成熟には個人の社会的自立が必要ですが、戦後日本の教育も社会も、憲法教育基本法のめざす民主的道徳の確立よりも経済的豊かさのみを追求してきたのです。

 いまや日本人は、日本民族が敗戦という犠牲を払い、日本文化と西洋文化を調和的に取り入れた「日本国憲法」の世界史的意義を深く自覚し、日本文化の長所を伸ばし短所を克服して、平和的民主的国民性を育成しなければなりません。21世紀の現代は、全地球的な環境・資源エネルギー、貧困、民族・宗教対立などの問題が解決されねばならない時代であり、狭い国益や利害の対立をあからさまに強調し、武力解決する時代ではありません。

 様々な対立の根源にある過去の宗教(神や仏、天国や地獄、悪魔や怨霊)やイデオロギー(西洋的諸概念、マルクス主義国粋主義等)、生命や心の問題も、科学的な常識で解明でき人類的にも相互了解が可能な段階にきています。また経済・政治的利害対立も、文明による自然破壊をはじめとする全地球的危機を念頭に(Think globally)、開かれた透明な(清き明き)関係を構築すれば、共存共栄のための平和的解決が可能となります。日本文化の受容性と生命力(感性の純粋さ)、自然と和の重視、またそれらを体現した「日本国憲法」こそこれらの今日的な問題の解決に貢献しうると思います。われわれは、歴史に学び反省的思慮を働かせる限り、日本文化に対し十分な誇りと自信を持つことができるのです。

 西洋の分析的、批判的、理性的思考と、そこから生じる主体的個人と民主主義の確立が、日本文化には欠けています。しかし、日本文化の受容的感性(排他的感性ではなく)によって、日本人には、集団の和をもとに、西洋文化の分析的「社会と個人」を肯定的に取り込むことが可能です。その契機となるのが「生命としての言語」すなわち「言霊(言葉の持つ生命力)」についての自覚なのです。「言霊」は、個人を自然や社会の中に位置づけ、「個人と社会」の安定(誤れば不安定)をもたらします。日本文化は、「言霊の謎」の解明と、それによって得られる人間存在(個体の位置づけ)についての普遍的知識によって、人間関係や生き方についての新たな世界標準を創造することができる可能性をもつのです。

 今日の世界の混迷は、物質的な利害の対立が基調にありますが、世界観や価値観という人間の在り方の混迷(宗教や思想の限界)に依るところが大きいことに異論は少ないと思われます。従って世界標準の価値を創造し確立することが、民主主義の育成や異なる文化や価値観の共生という以上に必要とされるのです。受容し昇華する日本人の能力や、自然と共に生きる日本の文化は、文明の危機が叫ばれる今日の宇宙船地球号において、世界平和と人類の永続的幸福への希望を与え、世界の文化や福祉に寄与する可能性をもっています。日本文化の短所である自己完結的自閉性に安住することなく、感性を重んじる日本文化の善性や徳性を伸ばし、世界的普遍性を創造していくことが日本文化の使命と言えるのではないでしょうか。

 

<資 料>日本文化の特性を表す言葉

Ⅰ.「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される。もとよりこの風土は歴史的風土であるゆえに、風土の類型は同時に歴史の類型である。自分はモンスーン地域における人間の存在の仕方を「モンスーン的」と名づけた。我々の国民もその特殊な存在の仕方においてはまさにモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である。」(和辻哲郎『風土』)

Ⅱ.「基本的には、日本人は自然を人間に対立する物、利用すべき対象と見ていない。むしろ、自然は人間がそこに溶け込むところである。自分と自然との間に、はっきりした境が無く、人間はいつの間にか自然の中から出て来て、いつの間にか自然の中へ帰っていく。そういうもの、それが『自然』だと思っているのではなかろうか。」(大野晋『日本語の年輪』)

Ⅲ.「日本人の非論理的性格は、おのずから論理的整合性のある首尾一貫した思惟作用がはたらかぬようにさせている傾向がある。すでに古代において柿本人麿は『葦原の水穂の国は神ながら言挙げせぬ国』であると詠じている。そこにおいては、普遍的な理法を、個別的な事例をまとめるものとして構成するという思惟がはたらかない。古代日本の精神を明らかにした称する本居宣長によれば、『古の大御世には、、道という言挙もさらになかりき。故古語に、あしはらの水穂の国は、神ながら言挙せぬ国といへり。・・・・・言挙せずとは、あだ(他)し国のごと、こちた(言痛)く言ひたつることなきを云なり。』という。」(中村元『東洋人の思惟方法3』)

Ⅳ.「ヨーロッパ精神の対照をなすものは、何かと言えば、境界をぼかしてしまう気分の中でする生活、人間と自然界の関係における感情のみに基づいた、従って相反を含まない統一、両親、家庭及び国家への批判を抜きにした拘束、自己の内面、自己の弱点を露わさないこと、論理的帰結の回避、人間との交際における妥協、一般に通用する風習への因襲的服従、万事仲介による間接的な形式、等である。」(カール・レーヴィット『ヨーロッパのニヒリズム』柴田 訳)

①「天地のはじまりし時、高天原成りませるの名は、天御中主の神。・・・・この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。・・・・・ここに天つ神(別天つ神々)諸の命もちて、伊邪那岐命伊邪那美命、二柱の神に「この漂へる国を修め理り固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。」(『古事記』倉野校注 )

②「葦原の水穂の国は/ 神ながら言挙げせぬ国/ しかれども/ 言挙げぞわがする/ 言幸くまさきくませと/ つつみなくさきくいまさば/ 荒磯波ありても見むと/ 百重波千重波にしき/ 言挙げす吾は/ 言挙げす吾は
反歌 志貴嶋の/ 大和の国は/ 言霊の助くる国ぞ/ ま幸くありこそ」(『万葉集 巻十三、柿本人麿』佐々木 校注)

③「現身(うつそみ)の身にも心にも罪といふ罪はあらじと 祓ひたまへ清めたまへと白(まを)すことを所聞食(きこしめ)せと 恐(かしこ)み恐みも白(まを)す」(『神言』)

④「有子曰わく、礼の用は和を貴しと為す。・・・・和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦た行なわるべからず。」(『論語学而十二』金谷治 訳)
「和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。」(聖徳太子『十七条の憲法』)

⑤「我(釈尊)諸の衆生を見れば 苦海に没在せり 故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ 其の心恋慕するに因つて 乃ち出でて為に法を説く 神通力是の如し 阿僧祇劫に於て 常に霊鷲山及び余の諸の住処にあり」(『妙法蓮華経如来寿量品第十六』中村元訳)
 「草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心の無常なる、これ仏性なり。国土山河の無常なる、これ仏性によりてなり。」(『正法眼蔵・仏性』)
 「此体に生死無常の理をおもひしりて、南無阿弥陀仏と一度正直に帰命せし一念の後は、我も我にあらず。故に心も阿弥陀仏の御心、身の御振舞、ことばもあみだ仏の御言なれば、生きたる命も阿弥陀仏の御命なり。」(『一遍上人語録』)

⑥「秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう凉しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。」(紫式部紫式部日記』池田校注)

⑦「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあんめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に墻根の草萌えいづる頃より、やや春深く霞みわたりて、花もやうやうけしきだつ程こそあれ、折しも、雨風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。」(吉田兼好徒然草 第十九段』西尾校注)

⑧「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」(松尾芭蕉笈の小文』中村校注) 

⑨「すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこちたくさだせるやうなる理非は、露ばかりもなく、たゞゆたかにおほらかに、雅たる物にて、哥のおもむきぞよくこれにかなへりける。」(本居宣長うひ山ふみ』村岡校注)

⑩「東洋の道徳、西洋の芸。匡廓(版木の枠)あひ依りて圏模(円形のかた)を完うす。大地の周囲は一万里、また半隅を虧(欠)きうべきやいなや。」(佐久間象山『象山書簡』植手校注 )

⑪「大日本帝国憲法 第一条 大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス 第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 」(『大日本帝国憲法』)
  「敎育ニ關スル勅語 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」(『敎育ニ關スル勅語』)

⑫「人が自己を中心とする場合には、没我献身の心は失はれる。個人本位の世界に於ては、自然に我を主として他を従とし、利を先にして奉仕を後にする心が生ずる。西洋諸国の国民性・国家生活を形造る根本思想たる個人主義自由主義等と、我が国のそれとの相違は正にこゝに存する。我が国は肇国以来、清き明き直き心を基として発展して来たのであつて、我が国語・風俗・習慣等も、すべてこゝにその本源を見出すことが出来る。(文部省『国体の本義』1937年初版)

⑬「武士道は、その表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。・・・・それは今なおわれわれの間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態をとらないけれども、それにもかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。」(新渡戸稲造『武士道』矢内原 訳)

⑭「日本の武人は開闢(カイビャク)の初めより此国に行はるる人間交際の定則に従て、権力偏重の中に養はれ、常に人に屈するを以て恥とせず。彼の西洋の人民が自己の地位を重んじ、自己の身分を貴て、各其権義(right)を持張する者に比すれば、其間に著しき異別を見る可し。」(福沢諭吉文明論之概略』)  

⑮「朕(チン)ハ爾等國民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジクシ休戚(喜びと悲しみ)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶(チュウタイ)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ヒイ)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。」(昭和天皇『新日本建設に関する詔書』1946/1/1) 「明治の国家神道というのは、それまでの日本的伝統にはないものですね。」(司馬遼太郎『対話選集3敗戦体験から遺すべきもの』)
「自分としては敗戦というのは、なんて言いますか、ショックでした。なんてくだらない戦争をする、そして、くだらないことを色々してきた国に生まれたんだろうと。一体こういうバカなことをやる国というのは何だろう。そういうことが日本とは何かとか、日本人とは何だということの最初の疑問になったわけであります。」(司馬遼太郎NHK戦後史プロジェクト『22歳の自分への手紙』」)

⑯「日本国憲法 第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(『日本国憲法』)
 「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。」(『教育基本法』)

⑰「日本人は歴史の長さにもかかわらず、まだまだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度で測ると、われわれが四十五歳であるのに対し、日本は十二歳の子供のようなものだ。勉強中は誰でもそうだが、彼らは新しいモデル、新しい理念を身につけやすい。日本では基本的な概念を植え付けることができる。事実日本人は生まれたばかりのようなもので、新しいものの考え方に順応性を示すし、また、どうにでもコントロールが利くのだ。」(西鋭夫『マッカーサーの「犯罪」』米上院公聴会記録)

⑱「日本人は甘えを理想化し、甘えの支配する世界を以て真に人間的な世界と考えたのであり、それを制度化したものこそ天皇制であったということができる。」(『甘えの構造』「甘えのイデオロギー」)
「欧米人において、「自分がある」という自覚が日本人に比較してより持ちやすいとするならば、それは彼らの精神的伝統の中に、個人をして集団を超越せしめる何ものかが存在するからであろう。それは集団を超えながら、しかも確実な所属感を個人に与える何ものかである。」(土居健郎『甘えの構造』「甘えの病理」)

⑲「日本の文化は根本から雑種である、という事実を直視して、それを踏まえることを避け、観念的にそれを純粋化しようとする運動は、近代主義にせよ国家主義にせよいずれ枝葉の刈り込み作業以上のものではない。いずれにしてもその動機は純粋種に対する劣等感であり、およそ何事に付けても劣等感から出発して本当の問題を捉えることはできないのである。本当の問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味を認め、それをそのまま生かしてゆくときにどういう可能性があるかということであろう。」(加藤周一『雑種文化』)

⑳「『デモクラシー』が高尚な理論やありがたい説教である間は、それは依然として舶来品であり、ナショナリズムとの内面的結合は望むべくもない。それが達成されるためには、やや奇矯な表現ではあるが、ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非合理化が行われねばならぬ。」(丸山真男『現代政治の思想と行動』)

 

「日本はわれわれ(アメリカ)の基礎の上にではなく、日本自身の基礎の上にその自尊心を再建せねばならないであろう。そしてそれを日本独自の方法によって純化してゆかなければならないであろう》(R.ベネディクト『菊と刀―日本文化の型』長谷川訳)Meantime Japan will have to rebuild her self-respect today on her own basis, not on ours. And she will have to purify it in her own way.

「戦争は第一に法の権威を毀損するものでさかのぼっては、人間の道徳的本分にそむくものである。法というものは、人間社会の無制限の自由の相互侵犯を調停し、道徳的自由実現の妨げになるものを取り除き、人格の品位を擁護しようとして成り立つもので、これを侵害することは人間の共同生活の理念にもとるものである」(カント『永遠平和のために』宇都宮訳) ”言葉の力(言霊)は、肯定と否定、快と不快、幸福と不幸、安心と不安の間で迷い揺れ動く心(心情)に平安と確信と希望をもたらすことができる。言葉は人間の証であり、行動の動因となり、人間の理性として正しく使う限り、人間を最も人間らしくする。日本人は言葉の力を「言霊」として真に理解し、日本的心情の善性を普遍的なものとして世界に広めることができる”