幸福とは何か?(幸福論の 三形態)

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願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃 西行法師

               永続的幸福の条件 幸福論と宗教批判 幸福論試論

 「幸福とは何か?」というのは、四大都市文明が成立し、有閑階級(哲学者や宗教家などの思想家)が人生について哲学的に考え始めて以来、今日に至るまで解答の得にくい難問でした。万学の祖とされるアリストテレスも、誰もが幸福を追求するが、知者や一般人の間に異論があることを述べています。彼自身は究極の幸福を、人間の本質を示す理性の活動を生かした観想的生活にあるとしましたが、享楽的生活や政治的生活における幸福も認めていました。ここでは、アリストテレスに倣って、幸福を「刹那的幸福」「過程的幸福」「永続的幸福」の三つに分類し、とくに「永続的幸福」について、東洋思想(特に仏教)との対比によって、現代人に受容可能な倫理的幸福論を提案します。

1)【刹那的幸福】は、動物的・生理的な基本的欲求を充足させ十分な快楽をもたらす幸福で、食料・衣服・住居を不自由なく獲得し、共同生活の中で喜怒哀楽の感情をコントロールしながら心豊かに生きることができる状態(場合)です。イソップ寓話でたとえるなら「アリとキリギリス」のうちのキリギリスの幸福感に近いものです(楽しめる時に楽しもう)。 
例示)
・直接的な欲求充足・快楽感情:快楽・幸福感を美味しい食事、快適な住まい、素敵なファッション、音楽、スポーツ、仲間など、物品や他人を介して幸福を得る。また、欲求や感情の求める宗教的幸福(苦しい時の神仏依存)や、他人から与えられ金銭で購入する娯楽はほとんどこの部類に入ります。「今だけ、金だけ、自分だけ」という新自由主義的発想は、人間にとって刹那的幸福しかないと思わせ、有限な資源の浪費にしか目を向けさせない資本主義的商業主義のイデオロギーの基本であると言うことができます。自己の創造性のない一時的な浪費と享楽の消極的幸福は、その幸福の持続性を維持することとは、決定的に矛盾します。

・死への態度:生前は自己の死について深く考えず、死に臨んでは幸福感もなく苦しみながら死ぬ。寝てる間に死にたい、ぴんぴんころりが望みというような絶望的な態度が特徴です。
・恋愛と友情:相手に対する思いやりよりも、自分の利害得失が優先する。その時その場の苦楽・幸不幸で離合集散し、相手を利用することで幸福を感じる(支配・虐待・いじめ)ような人間関係が特徴。
・消費性向と満足度:無計画的・衝動的・反道徳的、高所得者の浪費と享楽と欺瞞、低所得者の吝嗇と絶望と愚痴。


2)【過程的幸福】は、人間が欲求実現のより快適(安心、満足、美味等々)な目標を定めて創造的に追求する過程で得られる幸福です。イソップ寓話でたとえるなら「アリとキリギリス」のうちのアリの幸福感(目的をめざして苦労にも耐えてその過程も楽しむ)に近いものです。ただこの幸福の目ざす目的は、金銭や財産、健康や長命、娯楽やスポーツを楽しむなどの現世享楽的な目的であって、精神的哲学的宗教的内容のある内面的な心の平安・快楽を目ざすものではありません。
例示)
・人生における創造的達成目標の実現過程:名誉や地位、財産、事業や趣味等を持ち、創造的活動(過程)によって幸福(快楽・満足)を得る。確かな目標(人生への希望、夢、信仰、想定される快楽等)を実現する過程で、多少の困難も乗り越えられる。現代社会で推奨されている生き方は、ほとんどこの過程的幸福を目ざしています。生存競争(地位収入名誉等)に勝つことを生涯の目的にすること。貨幣を蓄積して物質的安定を得ることが、生涯の過程的幸福につながります。過程的幸福は、欲求や感情を抑えて常に向上心(言葉の刺激と意志的感情注※)を持ち信念を実現する。
・死への態度:目標・関心が死に優先し、死を達観した人生観。人生への挑戦に成功(または満足)して泰然として死を迎える。「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」(『論語』先進)
・恋愛と友情:共に動物的起源を持つが、人間の場合は言葉による刺激(「I love you」、または「 I d'ont love you」などの発話)が双方の幸福感情を決定づけ、信頼(または断絶)が永続化する。
・消費性向と満足度:計画的・理性的・目的的。競争活力・排他的成功志向と虚栄心、または互助互恵・連帯志向とヒューマニズム
 注※ 意志的感情:言語で表現された目的(就職祈願、登頂成功等)が言語刺激となり、行動意欲(元気・勇気・励み等)をもたらす感情。例えば、「頑張れ!」「祈れ!」となどという表現が、勇気や救いの感情を引き起こす人間特有の感情。(参照ここ)  ☞ ワクワク感、期待、希望、夢、努力、訓練。苦痛etc

 

3)【永続的幸福】は、外的環境の変化や流行に囚われない「内面的(内言的)な自己コントロール過程(精神集中、瞑想等)」で、心に生じる生理的欲求(安心、飲食、恋愛)や感情(快不快、好悪、苦楽)を抑制しても、精神的欲求の充足と感情の平安・平静を永続的に獲得できる幸福(感)です。このような幸福は、欲求と感情にまかせて日常生活の中で無自覚的に過ごしているだけでは、残念ながら得られない幸福です。人間は欲に手足の生えたもの、感情の動物と言われますが、また永続的幸福や安心立命を実現した聖者になることもできます。
 インド独立の父であり、ヒンドゥー教の求道者であったガンディーは、日常の政治活動の中で宗教者としてヒンドゥーの教義を実践しました。彼の言動は聖者といわれるのにふさわしいですが、彼の哲学は科学的とは言えません。例えば、彼は『獄中からの手紙』で「すべての外的恐怖は、なんの根拠もない、わたしたち自身の幻想の産物であることがわかります。冨や家族や肉体への執着を捨て去れば、恐怖はわたしたちの心中に巣くうことはありません」(森本達雄訳 岩波文庫p52)と言っています。しかし、彼が「幻想」とみなした「恐怖という感情」は、実は生物学的生存の生理的メカニズムであり、抑制・制御はできても消滅させることはできません。また彼は「神の実在」を信じましたが、それこそ人間固有の言語的幻想に過ぎないものです。とはいうものの、彼は永続的幸福を体得した「偉大な魂(マハトマ)」の所有者でした。

 ガンディーの信奉したヒンドゥー教の教えは、仏教やジャイナ教にも通じるものがあります。この点は、言語を獲得した人間たち(ホモサピエンス)の内の多くが現世における永続的幸福を求めて追求し、様々の着想を得て確立してきた神話や哲学、宗教教義にあらわれています。その中でも自己省察にもとづいて、科学的臨床的心理学と親和性があり、もっとも深く幸福や心の平安・悟りについての解答を見いだしたのがシャカ族の尊者(釈尊)である仏陀ブッダ)と思われます。この点はすでにⅱ.幸福のための心理(1)で述べたところです。
 それに対し、インドの貧民の救済に尽くした聖女マザーテレサは、クリスチャンとしての信仰に導かれ、イエスの受難(十字架刑)の意味を正しく実践しました(犠牲となって神に奉仕すること)。しかし、修道女としての人間的内面は、霊的指導者(神父)たちのキリスト教義上の解釈とは異なり、幸福なものでなかったと思われます。「私の魂の中では、神がわたしを望まれず、神が神でなく、神が実在しないというその喪失による激しい痛みを感じます。わたくしはその闇に取り囲まれています。魂を神に引き上げることはできません」(『来て、私の光となれ』里見貞代訳 女子パウロ会2014 p314)という「イエスに宛てた告白の手紙」は、「神の道具」として神と一体になるという宗教的な信仰であっても、現世での幸福を目ざさなければ永続的幸福は期待できないと思われます(来世で永遠の生命を得る確証がない)。

 さらに言えば、貧困は神の業ではなく、貧困を創り出す人間の歴史的社会的な関係やしくみの結果だったのです。聖者(神の子)イエスと聖女マザーテレサは、「神の愛に依存する人間の魂(罪人としての精神)」の救済をめざす究極の聖なる生き方でした。しかし、彼らには歴史的伝統的教義(虚構)の限界の中で、貧しい民衆が自らの存在を自覚し、人間(言語を持つ生命)として、現世での永続的幸福を獲得する希望と歴史的社会的役割(社会福祉の充実)を実現する智恵と勇気の必要性を理解することはできませんでした。(彼女の心の闇の意味は、さらに究明される必要があります。いずれにせよ、20世紀はもはや救世主イエスや聖フランチェスコの時代ではありませんでした。The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice by Christopher Hitchens 参照)
例示)
・精神的・内面的幸福:刹那的・過程的幸福は、主に幸福の対象が物質的・外在的・生成消滅的ですが、三大宗教では、空想的な「死後の永遠の生命」に続く永続的幸福が、経典や教義によって精神的・内面的に保障されるという信仰です。しかし、今日では科学的認識が普遍的認識方法となり、旧来の宗教は空想的・非科学的・不安定的となったため、永続性への確証がありません。今日では科学的(臨床)心理学を基礎にした科学的・普遍的知識(新たな学問体系)とそのための研究・教育が必要となります。永続的幸福の確立には永続的知識(真理)の探求、すなわち人間真理成立の前提となる「知識とは言語である」という生命言語論の理解が必要となるのです。
・死への態度:高等動物は仲間や子どもの死を悲しみます。人間は死を想像(予想)して不安と恐れを抱きます。しかし、永続的幸福は死の不安を乗り越えている心の状態(悟り、涅槃)です。それはまた、生への満足と自然・人間・家族・朋友への感謝の情を表せることでもあります。
・恋愛と友情:民族性や利己主義、ジェンダーを越え、共通の人間性(善性・良心)に由来する人間的連帯感(相互的優しさと思いやり⇒慈悲・仁愛)が必要になります。
・消費性向と満足度:肉体と精神の調和と抑制は、精神による知的作業であり、永続的幸福のためには、永続性のある科学的知識を価値判断の条件にします。そのため、偽善や名誉等の外的虚飾を求めないことに満足を見いだします(仏教経済学、価値観の変更)。

 

■ 永続的幸福とは何か?

 かつて人間は、精神(魂)的存在を永遠の実在と考え、肉体の滅びる死後の世界も、何らかの形で存在しつづけると考える傾向がありました。死後には現世での行為が評価され、善行や信仰の程度によって、「天国・楽園や極楽」での永遠の生命や幸福が得られるか、または、悪事を働いた場合、特に背教に対しては「地獄や冥土」での永遠の苦しみを受けると考えられていました。しかし、科学的思考が普及した現代では、精神の永遠性や死後の世界を信じる人は少なくなりました。今日多くの人は、刹那的幸福か過程的幸福(成功)を求めて、人間にのみ可能な永続的幸福の人生に思いを馳せることができず、自己の安心快適な生活のみを求めています。それらは物質的な豊かさ便利で快適なことのみが求められます。
 「永続的幸福とは何か?」これは精神活動の内でも、科学的知識にもとづく言語的統制(理性・知性)によって導き出すことが可能です。それによって誰もが自分の心の中に心の平安や永遠性、慈悲や仁愛のような意志的感情(「心の平安」のような言語概念を刺激とする人間特有の感情反応)として引き出すことができます。それは刹那的幸福(快楽)、過程的幸福を目ざす「希望や野心等」の意志的感情のもとでも可能ですが、もっとも確実に得られるのは、精神集中による思考や創造力をはたらかせる瞑想状態のもとで、永続的幸福を求める知識(言葉)に導かれてそれを実現できるのが一般的です。美観や美味、享楽や性的アピールなどの外的刺激があれば、知覚的誘惑に弱い精神(心)は乱されやすくなります。しかし一度精神統一の境地や永続的幸福を得れば、外的欲求や感情にとらわれても永続性を回復するのは容易になります。そればかりでなく、永続的幸福を体得すれば欲求や感情による外的幸福(快楽)に誘惑されても、知識と経験によってそれらを制御し永続的・内面的・精神的幸福や心の平安を保持しつづけることができます。
 永続的幸福を体得するためには、決して出家や修道生活の継続を必要としません。永続的幸福の体得とそれを支える知識があれば、利害得失の絡む社会活動に積極的に参加することが可能です。むしろそれによってさらに人生を豊かにすることができます。しかし、刹那的快楽は甘美で無限の誘惑がありますので、日常的に自己省察は必要となります。やはり既存の宗教行事や研修会におけるように、一定の時間と場所を設けて、相互確認をしながら行う定期的な瞑想や三省が必要です。今日では「民衆のアヘン」である宗教に替わって、営利を求めるマスメディアが、日々民衆の洗脳(愚民化)を行って刹那的幸福を与えているわけですから、持続的循環型(小欲自足)の社会のイデオロギーとしての永続的幸福論はよほど強力でなければならないと思われます。